泣けるスイッチ・4 依存をすること

泣けるスイッチはおそらく「依存をすること」とも大きく関わっている。ただ、それは地球を覆うプレートテクトニクスのようにかなり複雑に入り組んでいるので、まだ全容が解明されていない。


今回、おそらくいつもに輪をかけてわかりにくい話である。私自身がうまくわかっていないことをとりあえずまとめているためだ。以下、個人的な覚え書きとして読んでいただければ幸い。


最新の元彼とつきあいはじめた頃、彼が

「ぼくはけっこう相手に依存するし、前はそれでだめになったようなところがある」

というようなことを言っていたのを思い出す。あのときも、私は彼にうまく自分の思うことを伝えられなかった。


あのときの私は、たしか、

「だれでも少なからず依存はするし、つきあっているならなおさら相手に依存することもあるだろう。だから依存することが悪いことではないけれど、ただ、依存しすぎることは大変よろしくないよね」

というような、なんのおもしろみもない答えを返したと思う。彼も私も、それ以上その話を深くすることはなかったが、おたがいすっきりしない顔をしていたような記憶がある。


今も、彼の言葉に対する私の考えはうまく言葉に固まらない。それは、私の中で依存という言葉がうまく定義できないからだと思う。おそらく、彼の言う依存と、私の中でどろどろと不定形で落ち着かない依存は、用法や定義が違う言葉なんだろう。つきつめたら同じものかもしれないとは思う。でも、もうつきつめることはないし、それはわからない。


要するに、私は、依存ということがどういう意味の言葉なのか、全くよくわからない。


自分が依存をしているのか。
自分が依存をされているのか。
自分は依存をしないようにしているのか。
自分が依存を良きものとするのか、悪しきものとするのか。


よくわからない。私は、かんたんなことが、すぐにわからなくなる。


それでも通り一遍のことは理解しているつもりである。私は両親に依存をしているし、友だちに依存をしている。元彼にも依存をしていたし、インターネットに文章を書くこと、twitterで更新すること、テレビ、本、マンガ。中には、私が依存することで、私に依存をしてくれるものもあるだろう。一応だけども、ちゃんとわかってはいる。


良い、悪いについては、難しい問題だ。もともと正解はないし、良い悪いという判断基準は、主観的にも客観的にもあいまいだ。これは仕方のないことだと思う。


じゃあ何がわからないのか。じゃあ何が原因で形が定まらないのか。


私は自信がないんだと思う。自分が依存という言葉を理解しているという自信が持てないでいる。漠然とその結論を出せずにいる。


おそらくはその迷いが泣けるスイッチにつながっている。たとえば、病気であることがわかったとき、私はそれを近しい人に告白することが苦手だ。


私の理性は、まあまあ常識的なので、病気で困ったことになった場合、「この状況は一人の力でどうしようもなく、論理的に考えて誰かの助けが必要だ」と判断することができる。しかし、そのためには近しい人に自分が病気であることを告白せねばならない。そのとき、私は、泣きそうになることが多い。


「実は風邪ひいて熱が出ちゃって、悪いんだけどスポーツドリンクを買ってきてもらえないかな?」って誰かに電話するところを想像するだけで、私は泣きそうになる。変だと思う。でもそうなのだ。


以上のことから、依存をすることと泣けるスイッチの関係が深いことはまず間違いない。ただ、それがどのような関係性なのかは、まだ答えがわからない。そのうちなにかわかれば、またなにか書きたい。