手術

手術は10時半から、10時くらいからいろいろ準備が始まる、ということだった。


父が、
「8時半くらいに病院に行こうか?」
と母に聞いたら、
「なんでそんなに早く来るの? 来られても落ち着かんからもっと後に来て」
と断られていた。最近、母は、父のことを、思春期の中学生女子並みにウザがっている。面白い。


結局、9時過ぎくらいに病院に着いた。手術前の準備のため、入れかわり立ちかわり看護師さんが出入りして、あっという間に時間が過ぎた。


母の病室にガラガラの付いたベッドが入る。そこに寝かされると、右腕に筋肉注射。この注射は、眠くなったりぼーっとしたりする薬だという。手術室で名前と生年月日を聞かれるので、その際はちゃんと起きて答えてくださいね、とのことだった。完全に眠ってしまう薬ではないが、うとうとしても大丈夫ですよー、とのことだったのだけども、注射の終わった直後に母が完全に睡眠に落ちていて、薬スゲーって思った。


一旦退出した看護師さんがふたたび迎えに来て、ベッドがガラガラとひかれていく。私と父が後ろからついていく。いつもと違う寝顔の母は、手術室に運ばれている最中も、完全に寝てしまっていた。手術室に入る直前、看護師さんが、「それではこれから手術になりますが、なにか声をかけなくて大丈夫ですか?」みたいに言ってくれたんだけど、母完全に寝てるしなあ…って思った。そしたらちょうど、電車でうたたねしちゃって、頭がかくっとしてびっくりして起きた人みたいな顔をして、母がちょっとだけ起きた。とっさに、
「おかあさん、ちゃんと名前とか、言うんやで!」
って声をかけたら、母は、寝ぼけた顔のまま、
「ああ……、ぜんぜん忘れてた……」
ってむにゃむにゃ言いながら、そのまま手術室に運ばれていった。もし、母が手術中に死んじゃったらいまのが最後の会話になるのか……と思ったけれども、なんとなく死なない気がした。


手術は、通常は3時間だが、場合によっては5時間くらいのこともあるし、はっきりした時間はわからない、とのことだった。病室に戻り、父と私は実のない会話をしつつ、時が経つのを待った。途中、お弁当も食べた。父が、
「お母さんの手術が終わるまで食べる気がせんな……」
ってうろうろしながら言ってたんだけど、あれはたぶんおなかが空いてなかっただけだと思う。結局あとからお弁当食べてたし。


3時間が過ぎても、なんの音沙汰もなかった。まあ、3時間は過ぎるだろうと思っていたので、アイフォーンにグーグルアースを落として遊んだり、うとうと眠ったりしていた。不思議と落ち着いていた。


4時間が過ぎても母は戻らず、5時間が過ぎても母が戻ってくる気配はなかった。


父が、ちょっと遅いな……、と心配そうな顔をする。私は、なぜだか全然心配に思っていなかった。母の性質上、手術が時間通りに終わる気がしていなかったからだ。いつのまにか、手術が長引く覚悟があった。で、
「まあ、5時間くらいかかることもあるっつってたし、大丈夫じゃないの―?」
って言ったら、
「5時間はもう過ぎとるやないか」
って突っ込まれた。まあそうだけど、5時間「くらい」だからさあ、などと言い訳しつつ、ああ、父と私の心配するポイントってちがうんだねえ、とのんきなことを考えた。


16時20分くらいに、看護師さんが手術が終わったと呼びに来てくれた。約5時間50分。指を折って数えてみて、おお、長かったな、と思った。


手術室から青い手術服の主治医が出てきて、
「手術は無事に終わりました」
と言った。母はまだ手術室の中にいて、いったん別室に運ばれて麻酔を少しさましてから、病室に戻ってくる、とのことだった。


私と父は、手術室の隣の小さな部屋に案内された。その部屋には、午前中には母だった臓器が銀色の四角いバットに乗っかっていた。医師が、ハサミを使って、母だった肉を切りつつ、我々に説明をする。正直グロい。父は身を乗り出して見ている。私は、だいたい正視していたのだけど、あのぬとぬとしたホルモンはさっきまで母だったんだな、て思うと、なんだかハサミが当たるたびに痛い気がして、痛いわけはないのだが、後半はちょっと目をそらして、横に立っているもう一人の医師の様子を観察したりした。説明している主治医は黒ぶち眼鏡で、横に立ってる医師は銀縁眼鏡だなー、って思った。


説明が終わり病室に戻ったが、母はまだ戻ってきていなかった。父と、あんなふうに手術直後に切り取った部分を見せてくれるんだねえ、びっくりしたねえ、などと世間話をした。
「おとといにホルモン鍋を食べておいてよかった。今日ホルモン鍋やなくて、ほんまよかったわ」
と言って、笑いあった。父はほっとしているように見えた。


笑いがひと段落したところに母とベッドとなにやらたくさんの医療機器が病室に運ばれてきた。
「もう麻酔は覚めてますのでお話できますよ」
と言われたのだが、私は、何と言ったものか迷ってしまって、おつかれ、とつまらないことを言ってしまってちょっと後悔した。母は薄目を開けたりはするけれど、まだ人間らしく会話するのは無理のようだった。


目を閉じた母の顔は真っ白で、死んだ人よりも死んだ人っぽい顔で、なんかいっぱい細いチューブが接続されているし、呼吸器も付けてるし、心拍数とかを表示する機械も横でピコピコいってるし、見れば見るほど不安をかきたてられることこの上ないんだけど、手術がうまくいったからいまここに寝ているわけで、それはうれしいし、ぐちゃぐちゃな気分で、納得いかない感じだった、と思う。なんかあんまり覚えていない。たぶん、あまりいい記憶じゃなくて、勝手に脳が消去しちゃったんだと思う。この先、母が死んだときに、きっと似たような気持ちになるんだろう。