前厄

人から、あなたはそろそろ前厄なんじゃないの? と、何度か指摘されるので、なるほど私は前厄なのかと納得している。本当に自分が前厄なのか特に調べてはいない。私はそういうものに関心はあるが、信心はしない。ただ、おもしろがるだけの、不敬な女である。そういうわけで、前厄というのがいったいいつから始まるのか知らない。


前厄とはそういうスタンスで付き合っている私なのだが、このところ、「私、今年が前厄だからね」と最後に付け加えると、ひどく説得力の増す出来事が続いている。


まず、母親が大病を患った。ああ、親は近い将来かならず死ぬのだな、と思って、慌てた。親が死ぬという場面で、本当に無力な自分と向き合わざるをえなかった。今回、幸いにも親は死なず、再び間抜けな日常が戻ってきているが、またいつ死の予感が訪れるかわからない。もう少しましな自分で、そのときを迎えたいものである。


次に、男にふられた。私史上、一番長く付き合った男であり、一番私のことを大事にしようとしてくれた男の人でもあったので、身も世もなく乱れ悲しんだ。


今回、珍しく本気で相手の態度に怒った。本気で彼と向き合ったところ、十日で二〜三キロ減った。この十日、まともに固形物を口にできないからだ。昔からそういう傾向があるが、本気を出すと死ぬ寸前までいく。自分の体がついていけないのである。


いろいろとひどいことをしてしまったけれど、やれるだけのことをやれたとは思う。私が彼に向き合っているのと同じように、彼にも私と向き合って欲しいことを必死で伝えたら、彼もがんばって私を見てくれたんじゃないかな。そのことは、本当に報われたと思ったし、はじめて他人ときちんと向き合えた気がしている。


そして、自分は恋愛にやはり向いていないと思った。この問題については、また取り組まねばならない。うんざりだ。


最後に無職である。何度目だ無職。諸事情あったとはいえ、人生の落伍者として、順調なキャリアを積みつつある。三十で親に返すあてのない借金をすることになるとは、とんだ計算違いだ。ドラえもん、未来から私を助けにきてよ。そんなことをいっても詮無いことで、とにかく自力でなんとかするしかない。


そんなこんななので、あとは、自分が大病するか交通事故を起こすかすれば、非のうちどころのない前厄の完成であろう。その威力は、花札の月見て一杯に匹敵しそうである。猪鹿蝶は完全に超えたと思う。


ただ、私は前厄を恨んではいない。そもそも前厄というものを信じていない。しかし、前厄のある世界とない世界では、ある世界のほうが圧倒的におもしろい。


前厄とは、災厄が我が身に降りかかることである。しかし、この三十という年齢でこれらの災厄に見舞われて、私はむしろよかった。強いダメージを何度も何度も受けて、私のヒットポイントは0に近い。しかし、0にはならなかった。傷だらけでぼろぼろでも、なんとか生きている。死にかけてはいるが、死んではいない。私はそれがうれしい。死ななかった自分というのは、それなりの地力がついた証である。


いま、何をすればいいのか、私にはわかる。私には、死にそうな場合にはどうすればいいのかについて、経験と知識がある。


傷ついた体を慎重に安全な場所に運ぶ。ゆっくりと癒し、全快をはかる。そして、装備を整え、ふたたび戦いに赴くのだ。戦いは死ぬまで続く。人生はRPGではないので、リセットはない。失ったもの、付いた傷は、もうどうしようもできない。


だが、わたしはもう知っている。失ってもこの先に進むことができる自分を。グロテスクな傷にも慣れることができる私を。


そう考えると、前厄も悪いものではない。現時点の私がギリギリ耐えうる災厄であったので、私は自分が思ったよりしぶとくなっていることを実感できた。おそらくそのために厄年はあるのだろう。厄年のせいで死んでしまった人の話を私は知らない。


前厄なんのおそるに足らず。私は、ただ、死にたくないから生きていくだけだ。死なないように生きるのはもう何年も前にやめた。